見える恐怖

 

 

 

全く文章を書かなくなった。

自由に思うがままに書くことが無くなったという方が正しいかもしれない。

1年前までは溢れ出して止まらない、自分の言葉を形にしないとダメだ!と思っていたけれど、いざ本業にしようと一から学ぶと言葉の使い方が「正しい」と「間違っている」に分けられるから、適切な量で適切な文章を取り出すことを一番に考えるようになった。

 

自分の感性や、繊細な言葉のやわらかさを保ちながら文章を書く、そしてそれを仕事にするということの難しさを改めて感じている。

それは本当に才能のある人か、コツコツ発信できる人でないと中々難しいのだ。それ以外の人は、「私的な感情」は応用編にしかならない。

 

 

つまらなくなったわけではない、

不安定な言葉が、講師によって正されていくのは心地よい。評価される時はとてつもなく不安に陥るけれど、いざ指摘されると冷静になれる。

ちゃんと形になっていけるんだというささやかな肯定感が、社会の一部に参加出来ているような安心感までもを生み出している。

 

社会の一部になりたいだなんて思ったこと一度もないはずなのに、そう考えざるを得なくなったのは、私ももう21で、周りの子がみんな就活を始めていることが関係している。

今になって大学を中退した自分の選択に、甘く見ていたのかもしれないという後悔に似た感情が湧いていて、それは周りと比較することによって感じる「焦り」であり「正しく道を歩まなければならない」という強迫観念から来るものなのかもしれない。

だから、私は少しずつ「正しさ」を摂取することで安心感を得ているのだと思う。

 

 

 

1年前は死ぬか生きるかギリギリのところで彷徨っていたなと思う。毎日形のない不安に押しつぶされそうになり、見えない声に罵倒されている気持ちで布団の中に閉じこもっていた。

 

このまま大学に通ったら死んでしまう、とあの時は思ったのだ。あの時の私を軽くあしらいたくない。ちゃんと生きるための選択をしたじゃないか、

 

それでもお金の事とか、親のこととか、滞るべきところに滞っているものは沢山あって、今はそれをひとつひとつ解消していくために動いている。

 

 

バイトの面接に行った帰り道から全てが怖くなって辞めてしまった日、私はもう一生だめなんだと思った。

それでも今、週3.4でフルで働けている。

大丈夫になる日はちゃんと来る。

 

 

まあでも今大丈夫かと聞かれたとしたら、それは素直に頷くことは出来ない。

実際やることに追われて毎晩情けなく泣いている。それでも手は動かしていて、1年前の私が感じていた恐怖とはまた別の恐怖を今感じている、それは成長についてくるものだからと自分を慰めている。

 

現実だとか社会が目の前にいて、

前の私はそこからもっと遠く離れた場所で恐れていたけれど、今は目の前にして、ちゃんと目を開きながら見える恐怖と戦っている。

 

もう半年も自傷はしていない。

全て投げ出したくなっても、もう投げ出せない責任がある。正直それは苦しいけれど、生きている限り仕方の無いことだと思う。

 

早く自分に力をつけたい、

そのための今を味わっているだけだから。

 

稼ぎたいな、

私の大丈夫を私で作る。