遷り変り

 

 

 

 

最近すごく暑い。春が近づいているなあ、と思った頃にはもう初夏だったりする。何故気づかないんだろう?いつもその場所に慣れるまですごく時間がかかる、ようやく次のものをと手にしようとした頃にはあっけなく指の隙間から零れ落ちている。

私はこの曖昧な季節がたまらなく苦手だ。柔らかすぎる温度と真昼間から充分すぎる湿気は自分と周りの空気の輪郭をあやふやにして、元からささやか程度にしかない覇気や思考がドロドロと音も立てずに溶けていく。

 

気付いたら冬の仄白さを抜けて鮮やかになったものを目にするようになり、それにまだ慣れない頭のなかでは音が鈍く響き続けている。なんていうかずっと生温い湯船に浸かっている感じで、妙にむず痒くてずっといるには心地が悪い。

 

 

 

でも多くの人はこういう穏やかな移り変わりに心が凪いだりするのだろう。毎年必ず来ると信じてやまないものがあったり、風の匂いですぐさっきまで隣にあった季節を偶然見つけ出したような気持ちになって口元が綻ぶ姿はとても綺麗だなと思う。

 

春になれば桜を見上げ散った花びらも忘れないようにと写真に収めたり、秋になれば数回しか着られないような絶妙な生地と色味を兼ねた秋服をちょっと暑すぎたな、と思いつつ少し浮ついた気持ちで着るのだろう。移り変わりを楽しみ そこにほんの少し希望を乗せられる人は温かい。

 

 

 

 

 

よく冬を超えれば必ず春が来るよ、と言うけれど春なんか来なくていいと思う人間はどれくらいいるのだろう?凍てついた寒さは時に頭をクリアにさせ春よりずっと生きている心地がする。虚無も哀しみも感じることが増えるけれどその分感情を置いてけぼりにはしない。

 

 

 

 

春はどうだろう。冬の寒さで固まっていた身体が解けてよく動くようになった事を自覚するのがきっと私は辛いのだと思う、周りも「よしやるか」と動き出す中で自分の心はずっと戸惑ったまま目だけをキョロキョロ動かしている。

身体や表情ばかりがゆるんで感情が追いつかない。春、そういうとこあるよな。

 

 

 

 

 

何かが始まることも始まらないことも苦しい事だ。春に起こる人身事故は何故かいつもより耳を傾けてしまうのもそういうことなのかな

 

 

 

 

 

 

そんな春にも今年は元号が変わるというちょっぴり異例なことが起きる。何かが始まってしまうのはやはり春なのか、という気持ちとそれが4月でなく5月からという少し変わった尺度に空虚な高揚感がある。ダブルスタンダードとはこういうことを言うのだろうか?

まあなんだか言葉にすれば大袈裟だが特に何も変わらない、その時私はきっとどうでもいいなと思いながらもその瞬間には大好きな人の曲を聴くのだ、平成の中に閉じこめられた人達を淡く考えながら5月を迎えようと思う。

 

 

そしてまた暑さが本格的に訪れる頃に、今の空気に囚われて思い悩むのだろう そういうことの繰り返し。生き辛くてもそれはしょうがない、この「しょうがない」は諦めよりも肯定だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

冬のクリアさが恋しいけれど、いろいろ溶かしながら慣れていこう。時間が経てばちゃんと浮き彫りになるといいな。

冬、平成、また遊びにきて。